ケニアが出会う杉山和一&日本鍼灸指圧ツアー 開催しました!
2024年11月2日~11月8日でケニアへ行ってきました!
アフリカといえば・・・
人類発祥の地
どこまでも続く360度の地平線
弱肉強食の野生動物の世界などなど
アフリカの魅力は語り尽くせません。
昨年から準備をしてきた今年一番のイベントです。
(ちなみにケニアへは7年ぶりで、その時も鍼灸師を連れていきました。)
私、五味哲也とケニアとのかかわりはこちらを参考にしてください。
(ハリトヒト。インタビュー記事)
また、「2009年にテレビ東京開局45周年記念番組」にも取り上げていただきました。
(もう16年も前になるんですね~ (^^;))
~奇跡のキズナ~未来を創る革命児たち~ (クリックすると番組HPに移動します)
現在、マチャコスに4代目の青年海外協力隊員が10年ぶりに派遣されています。(マチャコスはナイロビから車で1時間半の場所にあり、ここの視覚障害者の為の技術専門学校に派遣されています。)
待ちに待った鍼灸マッサージ師の協力隊員。
ケニア側はどれほどこの時を待っていたことでしょうか・・・
今回のツアーの目的
- 後任隊員の活動を応援すること→現在ケニアで指圧師の国家資格化を目指している!
- 私が理事をしている杉山検校遺徳顕彰会の理事長と一緒に日本の鍼灸按摩の歴史や制度を知ってもらうこと
- ケニアの視覚障害者に杉山和一の存在を知ってもらい、誇りを持ってもらいたい
- 日本の鍼灸マッサージ師達にアフリカの魅力や視覚障害者の指圧について知ってもらうこと
が大きなツアーの目的です。
ただ、目標は別!(笑)
まずは参加者が安心して、楽しんで、無事に帰ってくること!
全盲、腰痛、人工関節、夜間頻尿、閉所恐怖症、家族の反対、円安など・・・ケニアやアフリカが初めてでかつ健康の不安もある面々。
「この機会を逃すと一生アフリカには行けないから」と参加者それぞれがそれぞれの障壁を乗り越えて、参加意思を表明してくれたこととその勇気にとっても感謝しています!(送り出してくれたご家族様にも感謝!)
そんなメンバー6人で行ってきました。(大丈夫かな・・・期待と不安で胸がはち切れそう・・・(^_^;))
杉山和一ってどんな人?
もし、海外の人から「日本の鍼灸と中国・韓国の鍼灸の違いは何か?」と聞かれたら杉山和一の存在を無視することはできません。
杉山和一(1610年(慶長十五年)~1694年(元禄七年)(杉山検校遺徳顕彰会サイトより)
全盲の杉山和一は鍼を入れて通す管を全国に広め、これにより細く痛くない鍼の治療ができるようになり、現在では鍼管は衛生的でもあることから世界中に普及しています。
また、世界で初めてとなる視覚障害者の教育施設「杉山鍼治講習所」を設置し、全国45か所に広がる。またそこで教えていた杉山流18手技は現在の鍼灸学校のはり実技の教科書にも引用され、その後弟子によって著された「杉山真伝流」は約100種類もの手技がある。
盲人ならではの「触れる」ことを重視し、微細なはりの運用術は日本鍼灸の特徴とされる。
杉山以前は各流派が門外不出、一子相伝など公開しない傾向がありましたが、杉山和一は広く門弟を募り公教育を行いました。これも大きな功績の一つです。
余談ですが、官立の医学教育を行った江戸医学館の設立はは1791年まで待たねばなりません。
杉山和一により視覚障害者の社会的地位は上がり、現在でも両国にある江島杉山神社において江の島からやってきた八臂弁財天像とともに祀られています。
ケニアに到着!
成田を土曜日の22時半に出発し、エミレーツ航空で12時間フライトでドバイ着。ドバイで5時間待機し、ドバイからさらにナイロビまで5時間のフライト。エミレーツ航空は日本映画が充実していて、食事もおいしく全盲の先生も楽しめたようで安心しました。
合計22時間、意外と皆さんお元気でホッとしました。
到着したナイロビはアフリカらしいちぎった綿のような雲が地平線まで続く。
スカベンジャー(残飯あさり)のアフリカハゲコウをみてテンション上がる一同。
私はケニアで楽しみにしていたタスカ―ビールで乾いた喉を潤しました。
時差は6時間あるため、一同が夕食をとった時間は日本では真夜中、早々にホテルにて休みました。
マチャコス視覚障害者技術専門学校へ
2日目はホテルでフィリさんと待ち合わせ。
フィリさんは日本で鍼灸あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取った、ケニアの日本人社会ではちょっとした有名人です。彼女に今回のセミナーの通訳をお願いしていました。ケニアは治安が悪く、公共交通機関は大きなスーツケースを持って乗ることを想定してないので、ケニアツアーは通常車とドライバーを貸し切ります。
宿泊先のホテルは入り口にはガードマン、持ち物はエックス線で検査をして、ごつい鉄格子の2重扉を通り、やっとホテルの中に入るほどの厳重さ。良くケニアの食事について聞かれるのですが、ホテルの食事はビュッフェ形式で正直ケニアらしくないのです。日本のホテルとそんなに変わりはない。車の移動が多いので昼食はホテルのランチボックスだったりします。
でも、参加者さんからしたらローカルの町歩きやローカルの食事を楽しみたい。
その機会があるのはマチャコスのみなので、早めに行き町の散策をしました。
マチャコスはカンバ人の住む地域、カンバ人は手先が器用なのが有名で多くのお土産はカンバ人が製作したりしています。皆さんお土産にとマーケットの品物に興味津々。
町歩きの途中で私の元生徒だったエバリンから「時間厳守で!いまどこ?」と油断ならない催促が(笑)。今、エバリンは指圧コースの責任者なのです。
そう、私がかつて教えていた時、生徒が時間を守らないので「1分遅れたら1分延長!」を徹底していました。エバはそれをちゃんと覚えていました。そしてそれを私にも実践してくれている訳です。(‘◇’)ゞ
私たち日本人が時間をやぶってしまってはまずい!と一同急いで学校へ向かいました。
私の名前が試験問題に!?
学校に到着すると、16名の視覚障害者の生徒たち、数名の教員たちが私たちを待っていてくれていました。
参加者の自己紹介が始まり、生徒たちが
「ミスターGOMIにお会いできて光栄です!」
「ミスターGOMIが切り開いてくれたおかげで私は自立する希望を持っています!」
「ミスターGOMIの活動に感謝しかありません!」
と次々に私の名前を話すじゃありませんか!
どうやら「ケニアで指圧を広めたパイオニアは誰か?」という試験問題があるからみんな知っていて当然とのこと。
なんだか面はゆいやら、恐縮するやら・・・
「かつてアフリカ大陸中の視覚障害者たちが指圧で食べられるようにするぞ!」
「アフリカに指圧の種を蒔くぞ!」
と情熱をもって活動していた日々や生徒たちを一緒に活動したことを思い出し、感動して泣きそうでした。
生徒たちの中にはタンザニアから5名ほど来ており、タンザニアはオランダが支援していて、帰国後に施設が用意されておりそこで働く場所があるとのこと。
ケニアでは卒業後に自分たちで仕事を見つけなければならないのが現状。
タンザニアの状況は正直うらやましい。
来年はウガンダからも生徒が学びに来るそうで、徐々に東アフリカ共同体(ケニア・タンザニア・ウガンダ)に拡大していっています。
その後のセミナーは吉田理事長による日本の視覚障害者の現状やその歴史、吉田理事長の歩んできた経緯、50年近いキャリアをもつ鍼実技供覧を行いました。
ケニアの指圧の課題
マチャコスの校長先生としては今後指圧師を国家資格にしたいとのこと。晴眼者の入学希望者も増えているが、視覚障害者に限定しているとのこと。日本のように晴眼者の無免許者が増え、視覚障害者の仕事が再び無くなることのないように願いたい。
私が赴任した当初は教室やベッドもなく、教科書も自作して全くゼロからの状況でしたので、当然インフォーマル(非正規)なコースでした。
それがフォーマル(正規)なコースとなり卒業するとサティフィケイト(卒業証書)がもらえるようになりました。
さらにその上の段階であるディプロマ(高等教育の証明書)を目指したい、と。
いわゆる国家資格化。
ただディプロマにするには多くのハードルがありますが、ディプロマにすることにより公的な施設(病院など)で就職ができる可能性もあるとのこと。
今の校長がかなり指圧に対しての理解が深く、彼女の力でここまで大きくなってきています。是非、この勢いのまま頑張ってもらいたいと願います。
ケニアのニュースでマチャコスの学校や指圧が取り上げられています。(2016年)
(動画内では「衣服を着たまま行う新しい日本式のマッサージ(指圧)を視覚障害者が学んでいます」と紹介されています。)
グループ化の困難さ
私がいた時の課題でもありましたが、人数が増えれば、限られたパイを取り合うことになりそれがお互いの疑心暗鬼につながります。これが多民族のケニアの難しいところ。見えないということは、見えないところでなにをしているかわからないので不安になります。だからこそ信頼関係の構築は時間をかけ、慎重に行うことが重要です。
本来、グループとしてまとまることでお互いのアイディアや経験を共有する組織になり、組合的な意味をもち、政治力をつけることが重要になりますが、今でもそれはなされていない様子でした。
私の生徒たちに連絡をとろうと試みても、連絡先が不明とのことで状況は変わっていない様子でした。
ジャクソンに会いに行く
マチャコスにはゴルフ場があり、そこで卒業生のジャクソンが働いています。
ジャクソンは私の活動が終わる頃に入学してきました。正直、物覚えがわるく、彼を教えきれなかったので後ろ髪を引かれる思いで帰国しました。親が養育を放棄し教会が食事を提供していました。
後任の2代目隊員が私の帰国後1年後に赴任しました。
ジャクソンはそれを聞きつけ、浮浪者のような姿で学校に現れた時は、学校としても再入学に難色を示していたそうです。
しかし彼はそこから頑張り、みごと職を得ることができ、今では結婚して子供までいるそうです。
「ミスター!俺はビッグな男になるよ。そして多くの人に影響を与えるようになりたい!」と当時では想像もできない力強い言葉を聞きました。職業で自立をし、家族を持つことが彼を成長させたんだなーとうれしく思いました。
また、私の生徒の一人ポールとは電話で話すことができました。
彼は現在病院で仕事をしていて収入も増え、安定しているとのことをうれしそうに話してくれました。彼も子供が生まれ二児の父でもあります。
ニュース番組に私の生徒のポールとレアが取り上げられています。(2012年)
こちらのニュースにも盲人の指圧が取り上げられていますね。簡易ベッドを持ってクライアント宅へ出張にいっている様子。(2022年)
盲人指圧師がサロンで勤務する様子(2017年)
ケニアで視覚障害者が生きていくということ
今回のツアーでは目にしませんでしたが、ナイロビの路上には盲人とストリートチルドレンが組んで物乞いをする様子がみられました。私の生徒たちも親が貧しく、盲目の子供の将来を悲嘆して養育を放棄することも珍しくありません。
目が見えないということは移動や食事、生活において健常者の助けが必要となります。
会いたい人に会いたいと思っても、他者へ連れて行ってほしいと依頼しなければなりません。他者の善意が彼(女)らの生殺与奪を握っています。日本のように点字ブロックがあるわけでもなく、紙幣やコインが触るだけでわかるようになっていません。他者の機嫌を損なうことは自身の生存も危うくさせてしまいます。
もっとも頼りにしたい親にも見捨てられ、自己肯定感は低く、何度も生徒からは「私は何のために生まれてきたのか、何のために生きているのかわからない」と言われたことが帰国後もずーっと心の中にありました。
確かに彼らが指圧の技術を身につけることは、社会への入り口になる。
しかし、たとえ、指圧で金銭を得ることができるようになっても、人としての尊厳や誇りを持つことはより大切なことではないだろうか?
日本人ができることは技術を教えることだけではないはずだ。
かつて、日本の視覚障害者は多くの文化を生み出してきました。塙保己一、本居春庭、滝沢馬琴、上田秋成しかり、琵琶法法師や瞽女による文化、楽器の伝播、鍼灸按摩だけでなく、音曲や国学者などにも名前を残しています。古事記を編纂した稗田阿礼も一説では盲人だったとの説もあります。日本社会では盲人は一種の畏れのような存在でもありました。
そんな豊かな盲文化をケニアの人たちに伝えたい。
日本では杉山和一は徳川綱吉の侍医をつとめ、神社に祀られていることを伝えたい。
今回のツアーはそんな私の思いもありました。
「アフリカの水を飲んだものは、またアフリカに帰る」
正直ケニアに行くのは今回を最後にしようと思っていました。
アフリカ関係者の間にあることわざの通り、まだまだケニアの指圧を見届けたい。やはりまたいつかケニアに戻りたい。そんな思いも日本に持ち帰りました。
日本では杉山検校遺徳顕彰会の理事として、琴、三味線、琵琶、平家語り、講談などの日本の伝統文化を江島杉山神社から発信したい。また杉山真伝流を海外に知ってもらうことが、日本の鍼灸あん摩を後世に受け継ぐことにもなるだろう。
今回のツアーの意義としては、杉山和一や日本の鍼灸あん摩の歴史や制度をアフリカの人に紹介できたことだと思います。杉山和一が生まれ400年、ようやくアフリカまで届けられました。日本の鍼灸あん摩の歴史に刻まれることでしょう。
野生動物など
ホテルなど
旅のまとめ
今回はケニアの旅行代理店 オンリーワンアフリカ様に大変お世話になりました。
日本人スタッフの対応はやはり安心できます。またドライバーのGeorgeさんも安全運転かつ熱心に動物を探してくれました。時間管理も完璧でした。
今回の旅は参加者の希望を聞きながらセキュリティーやホテルファシリティも勘案しながら、料金をできるだけ抑えてもらいました。今回はエミレーツ航空を選択しましたが、エチオピア航空だとかなり料金は抑えられます。
以上、次回の備忘録として。
多くの方から今回のアフリカツアーに関して質問がありましたので、写真を多めにブログを書きました!